悲劇の皇子・ヤマトタケル尊
第12代・景行天皇の3番目の子として生まれたのがヤマトタケル尊(日本武尊)だ。幼名はオウス命(小碓命)。ヤマトタケルは日本神話の中で最も有名な悲劇の英雄といえるだろう。
- 父・景行天皇の命令を勘違いしたオウスは、兄の手足をもいで殺してしまった。天皇は息子の荒々しさを恐れ、九州に住むクマソ(熊襲)兄弟の征伐に向かわせて、自分から遠ざけようとした。
オウスは叔母である伊勢神宮の斉宮ヤマトヒメ命(倭姫命)からもらった衣で女装して、クマソの宴席に紛れ込み、兄弟を倒した。このとき彼は敵のクマソタケルからその名をもらい、以降、ヤマトタケルと名乗ることとなった。
なお、クマソタケルとはクマソの地の勇者という意味であり、したがってヤマトタケルは大和=日本の勇者という意味だ。
大和国に凱旋したタケルに、天皇は東国の征伐を命じる。遠征途中、叔母に会った彼は 「父は私が死ねばいいと思っているのか?」 と嘆いた。そんな甥に、ヤマトヒメはもしものときのためにと、草薙剣と火打ち石を渡す。
各地を平定しっつ、駿河国(静岡県)に入ったとき、タケルは土地の豪族にだまされ、火の燃えさかる野に放置された。このときタケルは草薙剣と火打ち石を使って華を払い、九死に一生を得たのである。後に彼がこの豪族一族を全滅させたのはいうまでもない。
次に、タケルは船で安房(千葉県)に行くことにした。ところが途中、海神の怒りにふれ、船が進まなくなった。すると、同行していた妃のひとりオトタチバナヒメ (弟橘比売)が 「私が海に入って神の怒りを鎮めましょう」 と、海に身を投げた。その後、船は動き、一行は安房に渡ることができたのだ。
タケルはさらに乗行して蝦夷、山や川の神々を平定し、帰路についた。尾張国(愛知県)に着いたタケルは、ミヤズヒメ(美夜受比売)と一夜をともにした。そして、彼女のもとに草薙剣を置いたまま、山の神を討ちに出かけた。
だが、素手のタケルは山の神に敗れ、重い病を得た。病身で旅を続け、タケルは都近くの能煩野(三重県亀山市)までたどり着いたが、この地で命を落としてしまう。
訃報が大和に伝わると人々は嘆き悲しみ、タケルのために御陵を造った。すると御陵から彼の魂が1羽の白鳥となって飛び立ち、海の彼方へと消えていったのである。現在、能煩野には「日本武尊御陵」とされる、全長90メートル、高さ9メートルの前方後円墳がある。